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Shineは普通の会社員
こんにちは、会社員戦略の管理人Shine(@Lazy_Kaishine)です。
僕は40代の日系メーカーで働くごく普通のサラリーマンです。
国内営業、海外営業を経てアメリカ駐在を7年経験し、現在は日本で事業企画部門の管理職をやっています。
厳しい競争を勝ち抜く・・・といった激戦は出来るだけ避け、勝てる見込みがある領域で勝負するという戦略を好みます。
見方によっては意識低いと思われるかもですが、人生100年時代を生き抜くためには消耗しないことが一番という考えが根底にあり、80%位の力で人生を走り抜けるつもりです。
貧乏だった幼少時代
僕は収入が一定以下の人が住む公営住宅に住んでいました。
決して裕福な家庭で・・・というより割と貧乏な家庭で育ちました。
借りていた公営住宅は風呂無しだったので銭湯に行くわけですが、やはり貧乏だったので銭湯は2日に1回しか行けませんでした。
ただ僕はそれが普通だと思っていたので別に苦ではなかったです。
貧乏暮らしは色々不自由はあったけど、母親の作ったおいしいご飯を3食食べられて、大好きな野球もやらせてもらえたので十分幸せでした。
周りは「アイツん家貧乏」と思っていたでしょうが。
常に中の上だった中高生時代
貧乏な家庭で毎日工夫して生きていくことを考えていたからでしょうか、割と器用で中高生時代は何をやってもそこそこ出来る人間でした。
ただし何かに特別秀でていることはなく、成績、運動、趣味 etc. 何でも中の少し上くらいのレベルでした。
地頭は大して良くなかったので、テストの時試験前にまとめてゴリゴリ勉強して平均より少し上の点を取っていました。
運動神経もまあまあ、足もまあまあ速かったです。
中高生の頃から人との調和を重んじる性格だったので、友達はそこそこ多い方でした。
ただ集団を引っ張るという人間ではなく、そこそこ目立つ程度でしたね。
母の死、苦難の高校時代
僕の家庭は貧乏でしたが、両親は常に子供のことを考え、愛情をもって僕と弟を育ててくれました。
もちろん裕福な家庭がうらやましいと思ったことはあったけど、それなりに幸せでした。
僕が高校生の頃、家計の足しにしようとパートを掛け持ちしていた母を病魔が襲いました。
病気は治療ができないほど進行しており、入院して半年後母は亡くなりました。
亡くなる直前まで自分のことよりも僕と弟のことを心配していて我が親ながら仏の様な人だと思いましたね。
母亡き後、父、僕、弟の男3人での生活が始まりました。
父は仕事に出ていたので、弟と家事を分担して毎日を凌ぎました。
洗濯、掃除、食事準備等の家事をこなしながらの受験勉強はかなり大変でしたが、この頃ハングリー精神とタイムマネジメントが身に着きました。
何も残さなかった大学生時代
僕が大学を受験した当時は受験戦争と呼ばれた時代、一浪、二浪当たり前で主要都市にある大学はFランでも倍率10倍~20倍が普通でした。
僕が受験したFラン大学も倍率12倍でした。
進学校でもない公立高校に通っていたので、英語一教科の推薦入試を選択、Fラン大学に現役で合格しました。
ただ第一志望の大学は不合格だったので、一年浪人して再度トライしようか迷いました。
親の負担を減らす為、学費の一部は自分で払うつもりでしたが全額はさすがに無理。
浪人する余裕はないと判断、Fラン大学へそのまま進学する決意をしました。
貧乏な家庭にとって私立大学の学費は結構な負担です。
学費の3割を僕が負担するという条件で大学に通いました。
学費の一部を払う為に毎日アルバイトに明け暮れる日々、何のスキルも得ないまま4年が経過し大学を卒業しました。
なぜか大学卒業後に英語学習
何の武器を持たないまま大学を卒業、そのまま就職する気にはならず英語を勉強しはじめました。
大学生の時にやっておけよ!と言われると返す言葉がありません。
大学時代は将来のこと何も考えていませんでしたね。
大学卒業後昼間はパチンコ屋でアルバイト、夜は英会話スクールに通うという生活を2年間続けました。
他にやることが無かったので割と真面目に勉強し、日本人としてはそこそこの英語力が身に着きました。
将来の為に英検やTOEICなんかも受験しました。
英語を学び始めたのはなんとなく、アホみたいな理由ですが本当です。
ただ今思えば周りに流されて何となく就職せず、寄り道して英語勉強しておいて良かったです。
派遣社員として貿易業務
2年のフリーター生活終了後、そこそこの英語力をひっさげて就職活動を始めますが、当時は大学卒業後すぐに就職するのが当たり前の時代。
2年もブラブラしていた輩はなかなか相手にされません。
英語を使った仕事をしたかったので、商社や貿易関連の企業をターゲットにしていましたが、優秀な人が集まる業種のようで結構ハードルが高かった・・・。
そんな中派遣社員として貿易業務の仕事が決まりました。
仕事の内容は輸出入業務がメイン、貿易に必要な専門知識が身に着いた上に毎日英語を使って仕事することができ充実していました。
ただ派遣社員なので給料安い、賞与無し、昇給なしと続ける仕事ではなかったので2年程度働いて転職を決意。
転職活動を開始してすぐ外資系メーカーに営業として採用が決まりました。
派遣社員とはいえ実務経験を2年積んでいたので、フリーターから就職するよりかなりスムーズでした。
外資系メーカーで営業マン
貿易関連企業退職後、外資系メーカーで営業マンとして働き始めました。
外資系とは言え建築業界だったので、結構ガテン系でしょっちゅう建築現場に足を運びスーツを汚していましたね。
業界にはいかつい人達もたくさんいて怖い思いもしましたが、ここで営業のイロハを学びました。
4年程度働いて実績も上げ毎日充実していました。
ただ外資系なのに英語を使う機会が展示会くらいしかなく、英語を使う環境を求めてまたぞろ転職活動にいそしみます。
その結果2社から採用をもらいました。
一方は超大手外資系グローバル企業、もう一方は海外拠点がある高収益中堅メーカーでした。
大手で埋もれるのは避けたかったので、中堅メーカーのオファーを受けることにしました。
中堅メーカーで国内営業
オファーを受けた中堅メーカーには規模は小さいながらも世界の主要都市に拠点があったので、将来的には海外勤務を希望するという格好で入社しました。
海外駐在員候補生とは言え商品を何も知らないと話になりません。
まずは修行と言う形で国内営業所に営業マンとして勤務しはじめました。
それから7年いつまで経っても海外勤務のお呼びはかかりません・・・。
当時会社の売上は国内偏重、海外はおまけという位置付けでした。
僕は特殊な業界を担当していたので、会社としては担当者を固定しておきたかったようです。
このままでは埋もれてしまうと思い、宴席で辞める覚悟で当社の社長に近づき「ワタシ海外勤務希望でこの会社に来たんですぅ・・・」と直談判。
当時の社長は国際派、海外拠点を強化しようという動きも手伝って、その半年後海外営業に異動となりました。
アメリカ現法のマネジメント
本社で海外営業として働いた後、海外駐在員としてアメリカへ赴任しました。
アメリカ現地法人では、シャチョウとして現法をマネジメントするのがミッションでした。
小さな組織だったのでシャチョウとは言え、経営からゴミ捨てまでこなす何でも屋でした。
紆余曲折あったけど、僕の小さな夢「とにかく英語圏のどこかで働く」はとりあえずかないました。
夢が小さすぎて恐縮です・・・。
帰任した今の目標はアメリカ駐在中に得た知見や経験を活かして次世代の人材を育てることです。
Shineの会社員戦略
実際に自分がやってみて思いましたが、サラリーマンを生業とする場合、海外駐在員として働くことを本気でおススメします。
海外駐在員として働くことにより、語学力、マネジメント力、交渉力、サバイバル能力、度胸が身に着きます。
また家族帯同者は子供達も語学力が身に着きます。
勿論乗り越えなければならない壁がたくさんあることも付け加えておきます。
何より語学力と海外駐在経験をもった人材は、帰任後の市場価値が上がり転職による年収アップが狙えます。
ツライことも多いけど、海外駐在にはそれを補って余りあるベネフィットがあります。
最後にもう一つ書いておきたいのは、Fラン大卒のポンコツでも試行錯誤すれば、海外駐在員になれるということです。
僕の場合「海外で働く」というゴール設定をし、その為には業種変更、転職もいとわないというスタンスでした。
ゴールを設定しその為には何が必要かをしっかり考えて実行すれば少しずつゴールに近づいていきます。ゴールを設定しても大半の人は道半ばで諦めます。
裏を返せば諦めず継続すればチャンスがあります。
ここまで読んで頂きありがとうございました。
皆さまの会社員生活が素晴らしいものでありますように。